二代目時の太鼓
時の太鼓と田村藩(一関藩)の歴史
なぜ田村藩(一関藩)という小藩に時の太鼓の使用が認められたのか?
それは、主に二つの要因があると考えられている
・田村建顕公が幕府からの厚い信頼を得たこと
・武家社会における田村氏の格の高さ
この二点について詳しく紐解いていく
田村建顕公の来歴
田村建顕(1656~1708年)
1656年、田村宗良の次男として誕生。幼名は千勝。父・宗良は仙台藩 の支藩である岩沼藩3万石の当主。
1664年に元服して宗永と名乗り、同年、4代将軍徳川家綱に御目見。
1670年 従五位下・右京大夫叙任。
1678年 父の死去により家督を相続。 1681年 岩沼から一関に移封。 宗永は学問に秀でていたため、5代将軍徳川綱吉に重用され、
1691年 奥詰衆に取り立てられて譜代格となる
1692年に奏者番を拝命。 同年大晦日、建顕に改名。
1693年には城主格となる。
1708年に死去。享年53歳。
外様大名から
譜代格奏者番へ
異例の出世
田村右京大夫建顕(たむらうきょうだゆうたてあき)は、奥州一ノ関藩三万石 初代藩主。
田村家は、坂上田村麻呂の末裔の名門として奥州に豪族として存在し、戦国の動乱期に、伊達家に取り込まれてしまう。
建顕の父の代に、岩沼三万石を分知され、建顕の時に一ノ関に転封となる。
仙台藩の支藩であり当然外様大名の部類に入るが、建顕は学問が秀で和歌も嗜むなど、相当優秀な藩主だったとされる。
そんなこともあり、学問大好きの5代将軍綱吉に重用され異例の譜代格となり奏者番を拝命される。
もしかしたら、能好きでもある綱吉のこと、能に「田村」という坂上田村麿が主人公の演目があるが、田村右京大夫はその末裔であり名家だったということも、出世の要因の一つだったのかもしれない
田村家の
武家としての
格の高さ
田村氏は、坂上田村麻呂の末裔ともいわれ、 陸奥国の田村郡を支配していた(三春田村家)。
伊達政宗に娘を嫁がせ(正妻の愛姫)、伊達家庇護を受けていたが豊臣 秀吉の奥州仕置により改易された。
後に仙台藩伊達家の内分分家大名として 再興され、明治以降は子爵となり華族に列せられた。
伊達藩の支藩とはいえ、坂上田村麻呂を始祖とする田村氏は武家に とっては由緒ある家柄だった。
田村藩と伊達藩
譜代大名格の田村家
田村家から嫁入りした伊達政宗の正妻愛姫の遺言により、伊達家2代当主伊達忠宗の三男が田村宗良を名乗り再興された近世田村家。
伊達 62万石から3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府 に対して直接公役を果たす譜代大名格とされ、参勤交代等の義務もあり、常に藩の財政は苦しかった。
田村家は多くの当主が幕府の勅使饗応役を勤め、評価された。
特に7 代当主田村邦顕は文政11年(1828年)、わずか14歳で饗応役をやり遂げ、公家の広橋胤定から絶賛された。
しかし石高は本藩(伊達藩)から分知された支藩ではあったが、お互いの子息に継承させるなどの、相互に頼りあう深い関係にあった。
一関藩と蘭学
一関藩は蘭学において優れた人材を数多く輩出した。
2代目建部清庵を始めとして、大槻玄沢、佐々木中沢らがおり、東北で初めての人体解剖は一関藩医・菊池崇徳らによって行われた。
また藩政後期においては関流和算が浸透し、読み書き算盤が武士だけ ではなく農民の間にも普及した。
これは和算家千葉胤秀が一関の中農 出身であり、算術師範となって農民に和算を普及させたためである。
財政難の中で文化が発達した理由として、初代から学を好む藩主が続いたことと、小藩であるがゆえに学者、医者の影響力がより大きかっ たことが挙げられる。
一関藩と大槻三賢人
一関藩氏大槻家の玄沢、磐渓、文彦はの江戸から明治にかけて大きな 功績を残し、大槻三賢人と称えられる。
大槻玄沢(1757~1827)
一関藩医玄梁の長男。建部清庵の門弟となり、その後、 杉田玄白に蘭方医学を、前野良沢にオランダ語を学び、26歳で蘭学の入門書「蘭 学階梯」を著す。後に長崎でオランダ語を研究し、わが国初の蘭学塾「芝蘭堂」 を開く。「解体新書」の改訳、「重訂解体新書」の完成など医学の進歩に貢献。
大槻磐渓(1801~1878)
大槻玄沢の二男で、早くから開国を唱えた和魂洋才の 儒学者。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭に任じられ、戊辰戦争時には藩政を左右す る思想的影響力を持ったが戦争後は戦争責任を問われ投獄された(後に赦免)。
大槻文彦(1847~1928)
大槻磐渓の三男として江戸で生まれる。明治8年、 29歳の若さで文部省から辞書の編さんを命じられ、16年の歳月をかけて、わが 国最初の辞書「言海」を完成させた。「言海」は、大正末期までに400版余りを 重ねており、日本辞書史上不朽の名著として名を残している。昭和になってから は「大言海」に再編された。